「野鹿池の竜」

 阿波志には「大池山(野鹿池)は上名に在り 高峻無比 円形にして頂上平衍 池有りて能賀之池と言う
泥濘底なし
 四周老樹うっそう その下篠多し 中に小丘あり 高円なり 上に竜祠を安じ 雨を乞えば
必ず応ず」とある。

       

       
 数百年前、三名士(上名に藤川氏、下名に大黒氏、西宇に西宇氏)の藤川家当主に大助兵衛と言う男が
いた。彼は狩りを好み深山にわけいっては狩りに日を送っていた。
 ある日野鹿池山に狩りに来ていたが全く獲物が捕れない、疲れたので池のほとりに腰を下ろしていたがフト
「時々この山で怪異がおこるのは池の主の仕業だろう。竜王は在宅か」
 と戯れに呟いてみると池の水面が波立ち中から蛙が一匹現れた。大助兵衛はそれを鼻で笑うと蛙は姿を
消し今度は水の上に真白い雄鹿が現れた、がまたもや笑い飛ばすと雄鹿もたちまちのうちに姿を消した。
 そして一陣の風が水面を煽ったかと思うとみるみるうちに波は沸き立ち黒雲が天を覆いつくし水煙とともに
ついに巨大な竜が現れた。竜は大助兵衛を真向こうから煽って昇天をはじめた、従者達は恐れをなしひれ
伏したが大助兵衛だけは驚くこともなく竜が姿を消し去るまで眺めていた。
 その夜、大助兵衛の夢に竜王が訪ねて来て何事かを願ったらしい。
     
 翌日から大助兵衛による野鹿池修築の大工事が始まった。大歩危の川原からはるか1200mあまりの高さ
にある山上に毎日大勢の領民が石ごろを運んだ。
 やがて野鹿池には大堤防ができ水は山上に満々とたたえられ大工事は完成した。
 この池の竜王は今も雨乞いの神として祀られ干ばつの年は遠く讃岐、伊予の村々から雨乞いにやって来た。
      
 野鹿池には竜王の他、乙姫がいる。山爺が山伏に退治された時周辺の同族に対し「二度と再び人を害しては
ならぬ」と叫んだ。これを聞いて中津山に住む太郎坊、国見山の次郎坊が同意を示したが乙姫だけは何も
答えようとはしなかった。そのためかその後も野鹿池のある山にはしばしば怪異が起こったと言われている。

 羽瀬の二所神社の裏の宮淵には野鹿池神社が祀られている。そこへ月に二回竜王が通った。
 野鹿池を出た竜王は羽瀬の尾根を通り、黒松泉や西の泉で休み宮淵へ入ったという。
 竜王は夜通るので朝二つの泉は晴天でも濁って見えた。
 その他、竜王は岩屋首・針金橋の上の淵にも出没すると言われている。

「赤子淵」


 赤野谷奥魚返り淵の上は人が通ると赤ん坊の泣き声が聞こえて来たと言われている。
 声をたどって淵に下りてみても誰の姿も見あたらない。

「オ(ゴ)ギャナキ」

 徳島県には多くの場所でオギャナキの言い伝えがある。それは「赤ん坊の泣き声が聞こえてくるが行って
みると姿が 無い」と言ったもので、山城町近くの東祖谷山村では夕方に山を歩いていると「背負ってくれ」と
赤ん坊の姿をしたオギャナキが現れると言う。
 しかし背負うと徐々に重くなり潰されてしまうので「負い縄の左右の長さが違うので背負えない」と言うと
逃げることができる。
 山城町には泣き声だけで姿が無い、もしくは子供が外で泣いていると背中に「オギャー」と泣いて負ぶ
さってくるオギャナキの話しがある。
    
 ゴギャナキはゴギャゴギャと啼きながら一本足で山中をうろつき日暮れに早く家に帰らない子供をさらう。
 また、ゴギャが啼くと地震があるとも言われている妖怪だが山城町では泣き声だけのオギャナキと同一視
されていて「ゴギャー、ゴギャー」と泣くと言われている。

「犬神、山犬さん」

  上名平の平賀神社にある狼の脇社のいわれは神社近くに出た狼を撃ち殺すと村に凶事が続いたのでこれは
村の守り神だったのかもしれないと祠を作って祀ったと伝えられている。
      
 また犬神憑きの話しもある、徳島県では「犬神」は代々女性に伝わり15才になると母親から娘に伝えられ犬神
憑きの血筋は相手に対し犬神を憑けて呪う、と言われている。

「くわん淵の大蛇」

 平のお堂の脇にせんぼと言う屋敷があって、父は半蔵、母はおゆみ、その娘に器量の良いおはると言う娘がいた。
 その娘の元に若殿様の姿をした身なりの立派な若者が夜な夜な通って来ていたがどうにも不信に思え、おゆみは
娘の事を案じこの若者の正体をつきとめようとした。
 おゆみは梶の皮をはいで釜で煮てそれを細かく裂いて枷にかけよりをかけ、長いタフの糸を作り、糸の先にタフ針
をつけるとおはるの着物の裾にさして何か来たらひっかかる よう仕掛けを作った。
 待つこと十日、若者は仕掛けにかかった。 仕掛けの糸は猫窓を抜けて外に出ている、半蔵が糸をたどるとくわん淵と
言う淵にたどりついた。
 半蔵は寛道と言う山伏に頼んで淵を封じたが効かなかったのでくわざこの梅の木の下で三日三晩祈祷を続けて
天狗に化けて現れた淵の主の大蛇を一斗桶でふせて退治した。 そして二度と現れないように大岩の後ろへ葬った。

 そののちおはるのお腹が大きくなって十月十日の後、出産をしたがそれが人の子ではなく蛙の卵のような物で
それを7盥半も産み落としおはるは死んでしまった。近所の人はこれはくわん淵の大蛇の子だと言い合った。
 それ以来くわん淵の上の高い滝を天狗滝、くわざこの大岩を柴折りと言うようになった。
 その大岩の割れ目に柴を折ってさして拝むと大きな荷物を背負った人もたちまち疲れがとれると言う。

「柿谷橋の怪」

 津屋橋の下流20mくらのところに旧柿谷橋があった。古くは一本橋で土佐から川之江へ通じる街道だっ
たため多くの商人やお遍路さんがこの橋を渡っていた。ある時、悪い商人が村の娘にやたら手を出した
り悪い行いを色々と重ねたため怒った村の若者がこらしめにその商人を橋から突き落とし石を投げつけた。
 以来この橋を通ろうとすると不思議な音がしたり化け物がでたりと人を困らせる得体の知れない怪異が
起こったため橋の両側にお地蔵さんを建てた。
 影側の地蔵は撫養の青石地蔵で、津屋側は天然の大石に彫った磨崖仏(まがいぶつ:自然の岩壁等を利用
 して彫った仏像)で見渡し地蔵と呼ばれていた。
      
 一村一社の命が出た際、平の氏神さんを白山神社に合祀するため、ご神体を担いだ人々がここを通り
かかった。その際瀬尻の石の上で休憩し、いざ出発しようとするとどうしたことかご神体が動かない。
仕方なく元の平に戻ろうとするとご神体は難なく動いた。
 結局合祀はあきらめ元の平でおまつりをすることにしたと言う。